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東京地方裁判所 昭和54年(タ)100号 判決 1983年1月24日

原告 甲野太郎

右訴訟代理人弁護士 下光軍二

同 安彦和子

同 鈴木真知子

同 村千鶴子

被告 甲野花子

右訴訟代理人弁護士 丸井英弘

同 栗山れい子

同 井山庸一

主文

一  原告の請求を棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

事実

第一当事者の求める裁判

一  請求の趣旨

1  原告と被告とを離婚する。

2  被告は原告に対し金五〇〇万円及びこれに対する本訴状送達の日から右支払済みに至るまで年五分の割合による金員を支払え。

3  訴訟費用は被告の負担とする。

4  第2項につき仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

主文同旨

第二当事者の主張

一  請求の原因

1  原告と被告は昭和一六年四月結婚式を挙げ、家庭生活に入り、昭和一七年六月六日婚姻の届出をした。

原被告間には、昭和一七年六月二二日長女春子が、昭和一八年一二月二三日二女夏子が、昭和二二年二月一五日長男一郎が、昭和二五年一〇月一六日二男二郎が各出生した。

2(一)  原告は昭和一一年三月東京帝国大学医学部医学科を卒業し、直ちに同大学付属病院の島薗、柿沼内科教室に所属し、昭和一八年三月長野県諏訪市の諏訪赤十字病院の内科医長に、昭和二一年一〇月和歌山市の日赤病院内科医長に、昭和二八年三月財団法人日産厚生会玉川病院診療部長に転任し、昭和三二年四月○○労災病院の内科部長に、昭和四〇年四月□□労災病院の副院長に、昭和五三年九月に同病院の院長に就任した。

(二) ところで、右諏訪時代に至って、被告は原告に対し、愛情のない、冷たい態度を示し、また育児と家事をおろそかにし、一家団らんよりも宗教に重きを置くという生活をするようになり、これに対し、原告は批判の目で見るようになった。そして、原告は、被告に対し再三に亘り注意等したが、被告は右生活態度を変えなかった。

(三) 被告は性生活の面でも全く義務的で、昭和一九年末ころからこれを避けるようになり、昭和二二年始めころから二階の夫婦の寝室に寝ないで、階下の部屋で就寝するようになり、昭和二七年一〇月以降性生活は全くなくなった。

(四) 昭和二八年三月東京に帰ってきてから、原被告は、世田谷に建物を買って生活を続けたが、被告は相変らず宗教にこり、口もきかない状態が続いた。業を煮やした原告は、時として多少暴力にまで及んだ。昭和二九年春、原告は最早このような生活に堪え難く、離婚を考え、東京家庭裁判所に第一回目の調停を申立てたが、被告の方で離婚はよいが、子供は手離せないとして右調停は不調となった。

なお、原告は昭和二九年夏ころ実母の甲野うめに同居してもらった。

被告は、勝手に昭和二九年一二月ころ必要な家財道具等をもち出して、子供とともに被告肩書住所の実家に移り、実母の訴外丙川竹子と同居生活を始め、以来今日まで原告との同居生活を拒み、今日まで別居を続けている。

原告は、四人の子の養育費を全部負担し、また、四人の子の結婚費用もこれを負担した。

(五) 原告は、昭和三一年、昭和四二年、昭和四五年にそれぞれ東京家庭裁判所に夫婦関係調整の調停の申立をしたが、被告は、自分は悪くないという一点ばりで、反省してもう一度やり直そうという意思もなければ、離婚の同意もしないで、全て不調に終った。

(六) 被告は、かように原告との婚姻生活を放棄して、妻としての同居義務、協力扶助義務を全く履行しなかったのであって、原被告の婚姻生活の破綻の原因は主として被告にある。

3  なお、原告は別居後、実母の甲野うめと共に生活をしていたが、昭和三四年ころになると高齢と病気のため、右うめの世話をする者が必要な状態となり、そうした折、かねてから知り合いの訴外乙山松子(以下訴外乙山という。)が仕事の合間に原告方に来て原告とその母の世話をするようになり、その結果、原告と右乙山との間に男女関係が生じた。しかし、右の男女関係は、原告と被告の婚姻関係が全く破綻した後に生じたものであり、原被告の婚姻関係の破綻には何ら関係はない。

4  以上の次第で、原被告間の婚姻生活は被告の悪意の遺棄により別居が続き、原被告の婚姻関係は回復不可能なまでに破綻しているので、原告は民法七七〇条一項二号五号により被告との離婚を求める。

なお、仮に、被告の側に破綻の原因が全く認められないとしても、今日の破綻主義の下では、最早永い別居生活等から、原被告の婚姻生活が到底回復することができない以上、その有責性を問うまでもなく民法七七〇条一項五号により離婚が認められるべきである。

5  原被告の婚姻関係は被告の責に帰すべき事由により破綻したのであるから、原告の受けた多大の精神的苦痛に対する慰藉料として金五〇〇万円を支払うべきである。

二  請求の原因に対する認否及び被告の主張

1  請求の原因1は認める。

2  同2の(一)は認める。但し、昭和一七年九月ころから、鉄道病院に勤務したが、数ヶ月後退職したという事実がある。同2の(二)、(三)は全て否認する。同2の(四)のうち、原告が被告に対し暴力を振ったこと、昭和二九年春原告が東京家庭裁判所に第一回目の離婚調停を申立てたが、右調停が不調に終ったこと、原被告が昭和二九年一二月別居し、被告は子供とともに実母の訴外丙川竹子と同居生活を始めたこと、原告が子供四人の養育料、結婚費用の一部分を負担したことは認めるが、その余は否認する。同2の(五)のうち、原告が各夫婦関係調整の調停の申立をしたが、いずれも不調となったことは認めるが、その余は否認する。同2の(六)は争う。

3  同3のうち、原告と訴外乙山が男女関係にあることは認めるが、その余は否認する。

4  同4、5は全て争う。

5  被告の主張

原告と訴外乙山は昭和二六年ころ和歌山日赤病院の医師と患者との関係において知り合い、その後、訴外乙山が原告の勤務する右病院のインターンとして勤務するようになって原告と親密となり、昭和二六、七年ころから両名の間に情交関係が生じ、右関係は原告が昭和二八年三月上京した後も続いた。原告は訴外乙山と右情交関係を結んだころから、被告に対し執拗に離婚を迫るようになり、原告は、特に上京後、離婚を拒否する被告に暴力を振うに至り、それが昼夜の別なく続いたので、子供の精神状態も極度に不安定に陥ったため被告は別居を決意し、その直後、原告は子供四人に父と母のどちらにつくか詰問したところ、全員が被告を選んだので、被告は昭和二九年一二月四人の子供を連れて家を出て原告と別居し、上落合の被告の実家に身を寄せたのである。したがって、今日に至るまでの原被告の別居の原因が原告と訴外乙山との情交関係にあったことは明らかである。したがって、原告の離婚請求は有責配偶者による離婚請求として棄却されるべきである。

第三証拠関係《省略》

理由

一  《証拠省略》によれば、次の事実を認めることができる。

1  原告と被告は、昭和一六年四月挙式して同居を始め、昭和一七年六月六日婚姻の届出をした。原被告間には、昭和一七年六月二二日長女春子が、昭和一八年一二月二三日二女夏子が、昭和二二年二月一五日長男一郎が、昭和二五年一〇月一六日二男二郎が各出生した。

2  原告は、昭和一一年三月東京帝国大学医学部医学科を卒業し、直ちに同大学附属病院の島薗、柿沼内科教室に所属し、その後、一時鉄道病院に勤務した後、昭和一八年四月医学博士の学位を取得し、昭和一八年五月長野県諏訪市の諏訪赤十字病院の内科医長に、昭和二一年一〇月和歌山県の和歌山日赤病院内科医長に、昭和二八年三月東京都内の財団法人日産厚生会玉川病院診療部長に、昭和三二年四月○○労災病院の内科部長に、昭和四〇年□□労災病院の副院長に、昭和五三年九月同病院の院長に就任し、現在に至っている。

3  原告と被告の新婚当時、原告は柿沼内科教室に所属する無給副手であって、原告の父の援助を受けながら生活していたが、原被告間の婚姻生活は平穏かつ円満であった。

4  昭和一八年五月原告が前記諏訪赤十字病院に勤務することとなって、被告はこれより遅れて長女春子とともに諏訪市に転居した。その後、昭和一八年一二月二女夏子が出生し、折柄戦時中のため物資に不足等する中で、被告は家事に従事し、原告は、前記病院の内科医長として職務に精励した。原告と被告は、こうした中比較的円満に生活をしていた。

5  その後、昭和二一年一〇月原告は和歌山日赤病院に転勤となって、原被告ら一家は和歌山市に転居した。昭和二二年二月には長男一郎が、昭和二五年一〇月二男二郎が各出生したが、被告は家事や子の養育に専念し、また、原告は勤務に励む一方、自宅での診療をも行い、被告は、これを手伝ったりして、夫婦互いに多忙な中、比較的円満に婚姻生活を送っていた。そして、原告は、時々、病院の部下等を自宅に招き、夫婦そろって勧待したりした。

6  原告は、学者肌の神経質で過敏なところがあって、夜子供の泣き声のため睡眠を妨害されることを嫌い、昭和二〇年ころ以降被告及び子供らとは別室で就寝するという状態であった。

7  ところで、訴外乙山は、昭和一九年四月東京女子医学専門学校に入学したが、肺結核等の病気のため学校を休学し、昭和二四年三月学校の教授から紹介状を得て原告が内科医長をしている和歌山赤十字病院に入院して、同病院において原告を知った。その後右乙山は退院した後、復学し、昭和二六年学校を卒業し、その後両親の希望により昭和二六年四月から和歌山赤十字病院にインターンとして勤めることになり、昭和二七年一月からは、原告が医長をつとめる内科でインターンをした。当時、和歌山赤十字病院は京大系が主流をなし、東大出身の原告は、内科にあっても孤立状態にあった。訴外乙山は自分自身東大系の教授に指導を受けたことや、原告が医師としてすぐれた資質を有していたことから、原告の立場に深く同情し、インターンの終った昭和二七年三月以降も引き続き原告の所属する内科にあってその手伝いをし、これは右乙山が同年五月医師国家試験を受け、同年九月右試験の合格の発表のあったころまで続いた。こうした中、原告は訴外乙山が原告の立場に同情し、何かと協力的であったことから、次第に訴外乙山を憎からず思うようになった。訴外乙山の方でも、原告のそうした気持を知って、昭和二七年五月ころには、原告の学会出席に同行したり、また、昭和二七年七月ころには、原告の依頼により東京で病院入院中の原告の実母うめを見舞ったりして、親しく交際するようになり、また、原被告間の子に物を買い与えたりなどして可愛がった。そして、昭和二七年秋ころ、原告は夜遅く、訴外乙山を伴って帰宅し、被告に対し、原告の寝室に寝間の用意をするよう命じたことがあった。もっともその際は、被告の反対で、結局、右乙山は原告方に泊らなかった。こうした中、原告と訴外乙山の仲は病院内でも噂となるに至った。

そのため、昭和二七年ころから原告が被告に対し不機嫌になり、その結果原告は被告に対し殆ど話しかけることもなくなり、夫婦の関係は次第に冷えたものとなった。また、このころから、原告は被告が従前から宗教に帰依していることに悪感情を持つようになった。また、原告と被告の性生活は、昭和二七年一〇月八日ころを最後として絶えてなくなった。そして、原告は、昭和二八年の初めころから被告に離婚を求めるようになったが、被告はこれに応じなかった。

8  原告は、かねてから学者として研究生活に生きることに強い希望をいだいていたが、恩師の柿沼教授が昭和二七年四月死亡したため、学者になることの希望も絶たれ、また和歌山日赤病院にいても孤立状態にあって先の見込みもなく、被告と不和の状態になっていたので、被告に相談することなく、和歌山を引き揚げて、財団法人日産厚生会玉川病院の診療部長として勤務することとしたが、結局、家族全員で昭和二八年三月ころ上京した。

9  上京後も、原告は、被告に対し不機嫌で話しかけることもない状態が続き、原告は、被告に対し離婚を求めたが、被告はこれに応じず、原告の右申し出を無視するなどしたので、原告は被告に対し暴力を振ったりした。

10  昭和二九年に至り、原告は東京家庭裁判所に離婚調停を申立てたが、同年一〇月ころ、被告は原被告間に不和を生じたのは、原告と訴外乙山の関係が生じたことが原因であるなどとして離婚に応じなかったので、右調停は不調となった。

11  右調停後、原告は何かにつけて不機嫌で、被告に対し、しばしば暴力を振って被告に離婚を求めるようになった。そのため、被告は、原告の暴力等に耐えられなくなって、止むなく、一時別居することとし、その際、子の養育費は原告が負担し、子供が病気になったときは原告が面倒をみることとし、子供が原被告のいずれにつくかは本人の希望に従うこととし、結局、被告が四人の子の養育に当たることとなった。

そこで、被告は、四人の子とともに、昭和二九年一二月二六日原告の下を出て、上落合の被告の実家に身を寄せ、以来今日に至るまで、別居の状態が続いている。

12  右別居後、原告は現在に至るまでに、子を介して、あるいは直接被告に対し繰り返し、離婚を求めてきた。また、原告は昭和三一年二度目の離婚調停を申し立て、更に、その後、昭和四二年、昭和四六年にそれぞれ離婚調停を申し立てたが、いずれも被告が離婚に応じなかったので、右各調停は不調となった。

13  原告は、被告と別居後、四人の子供の養育費や、結婚費用等に関しては被告の要求するところに従い相当の負担をし、被告に対する援助を惜しまなかった。その結果、四人の子は、それぞれ大学教育を終了して、結婚し、家庭を持っている。

14  被告は原告と別居後、実母の訴外丙川竹子とともに同居生活を送り、家政婦として働いたりした後、昭和三〇年四月から学校に通って栄養士の資格を取得し、現在東京都採用の栄養士として働いている。

15  一方、訴外乙山は、昭和二七年一一月から和歌山県△△保健所に勤務し、昭和二九年四月から数ヶ月間研究のため上京し、昭和三〇年六月右保健所を退職し、かねてから上京の希望を持っていたので、昭和三〇年一一月上京して東京都××保健所に勤務することとなった。右乙山と原告の交際は、原告が昭和二八年三月に上京した後も続き、その後、昭和三四年ころから、足繁く原告宅を訪れて高齢で病気の状態にあった原告の実母の世話やら原告の世話をするうち、原告と訴外乙山との間には肉体関係が生じて今日に至っている。

二  以上の事実が認められ(る。)《証拠判断省略》

なお、被告は、昭和二六、七年ころから原告と訴外乙山との間に肉体関係があったと主張するが、いまだこれを認めるに十分ではないが、前掲各証拠によれば、前記認定のとおり右当時、原告と訴外乙山が相当親密な仲にあったことは容易に認めうるところであり、また同証拠によれば、右交際は、その前後の経緯からみて、前記認定のとおり、原告が昭和二八年三月に上京した後も続き、最終的には、昭和三四年ころから原告と訴外乙山との間に公然と男女関係が生じるに至ったと認められるところである。

以上認定の事実によれば、原告と被告との婚姻関係は、現在は長期にわたる別居により破綻しているといわざるをえないが、右破綻は、原告と訴外乙山との交際が契機となって、原告が被告に対し離婚を求めて暴力を振うに至ったため、被告が止むなく別居したことにより生じたものであるから、その主たる原因は原告にあるということができるので、原告の離婚の請求は有責配偶者によるそれとして棄却を免れないというべきである(なお、原告は、有責配偶者による離婚請求であっても、その有責性を問うことなく、婚姻関係の破綻の有無によって離婚請求の当否を決すべき旨主張するが、当裁判所はかかる見解は採用しない。)。したがって、原告の被告に対する慰藉料の請求も認めることができない。

三  よって、原告の本訴請求は理由がないので失当として棄却し、訴訟費用の負担につき民訴法八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 中路義彦)

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